宇都宮城跡

   

宇都宮市本丸町1-15  地図

宇都宮城跡 明治元年4月19日と、23日の二度にわたって攻城戦が行われた。
宇都宮藩兵をはじめ、東山道総督府軍を中心とする西軍と、下総から日光へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする東軍の間で起きた戦い。
宇都宮城二ノ丸御殿や、三ノ丸の藩士邸宅、二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失した。
第二次の攻城戦では、松が峰門を守備していた土方歳三が足に銃弾を受け負傷、戦線を離脱している。
贈従三位戸田忠恕之碑 宇都宮藩第6代藩主。
弘化4年(1847年)5月23日、第4代藩主・戸田忠温の六男として生まれる。
安政3年(1856年)兄・忠明の死で後を継ぎ従五位下越前守に任官した。
忠恕は尊王の志に篤く、元治元年(1864年)水戸天狗党の乱が起きた折、諸藩皆これにあたるべきところを、出兵遅延はおろか、藩内に藩主一門の戸田次郎をはじめとする宇都宮天狗なる天狗党同調勢力を抱えており、宇都宮藩は幕府の嫌疑を受けるに至った。
これにより2万7000石を減じられ5万石となり、忠恕は隠居謹慎を命ぜられ養嗣子・戸田忠友に藩主の座を譲り、さらに陸奥棚倉藩に転封されることとなった。
戊辰戦争の折は西軍につくも東軍により攻められ落城したが、宇都宮藩は宇都宮城を再び奪回。
忠恕は朝廷より召し出しを蒙るが病にて果たせず5月28日死去。
享年22歳。
戒名は霊光院殿神岳忠烈大居士。
贈従三位。