会津若松市七日町4-20 地図
会津藩3名墓 | 黒河内伝五郎・・・11石2人扶持。明治元年8月23日若松の自宅で自刃。65歳。 黒河内百次郎・・・伝五郎次男。朱雀士中四番佐川隊。明治元年6月越後で傷、8月23日若松自宅で自刃。36歳。 黒河内百太郎・・・伝五郎伜。大砲士中二番千葉隊。明治元年8月23日若松天寧寺町口で戦死。43歳。 |
戦死墓 | 戊辰戦争後、城下及び近辺で戦死した会津藩士の遺体は触れることも許されず放置されたままになっていた。 伴 百悦や町野主水らの嘆願が叶い阿弥陀寺と長命寺に限り埋葬許可が下りたのは翌年の2月であった。 1281柱と言われている遺体は、境内に8間四方の穴を掘り、そこに積み重ねられて埋められた。 当初は『殉難之霊』という墓標だったが、新政府より「賊軍に殉難とは何事か」と咎められ、やむなく『戦死墓』となった。 |
萱野長修遥拝碑 | 会津藩家老萱野権兵衛の遥拝碑。 戊辰戦争後、新政府より藩主父子を助命するかわりに戦争の首謀者3名を差し出すよう要求された。 西郷頼母は行方不明、田中土佐、神保内蔵助は既に自刃していたため4番目の席次にあった萱野が藩の責任を一身に背負って明治2年5月18日飯野藩保科邸内において自刃。 40歳。 |
藤田五郎墓 | 旧名・斎藤 一。 元新選組三番組長。 鳥羽・伏見、甲州勝沼と転戦。 近藤 勇が流山で投降後、江戸に残った土方歳三と別れ一部の隊士を率いて会津へ向かう。 土方が仙台に向かった後も会津に残り戦い続けた。 降伏後は会津藩士と共に越後高田で謹慎、のちに斗南へ赴く。 名を藤田五郎と改め、会津藩士の娘・高木時尾と結婚。 その後東京へ移住し警視官となり、西南戦争では警視官によって結成された別働第三旅団に所属して従軍し、抜刀斬り込みで活躍。 明治24年(1891年)に警視庁を退職後は東京高等師範学校などに警備員として勤務。 大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のため死去。 享年72歳。 |