会津若松市花見ケ丘3丁目3-8 地図
白井五郎太夫墓 | 会津藩。 500石。 番頭席。 大砲隊頭。 明治元年1月3日鳥羽で傷、淀で死。 31歳(37歳とも)。 |
小浅宗碩墓 | 会津藩。 医師。 明治元年1月5日淀で傷、江戸品川で死。 63歳。 |
柴 謙助墓 | 会津藩。 太一郎の弟。 大砲士中一番日向隊。 明治元年4月6日下野家中村で戦死。 25歳。 |
会津藩3名墓 | 小川鉱太郎・・・郷左衛門伜。小姓。明治元年5月19日越後長岡へ使者として出張中、長岡兵とともに戦死。19歳。 小川房次郎・・・10石3人扶持。大砲一番田中隊。明治元年8月29日若松融通寺町で戦死。17歳。 小川郷左衛門・・・150石。白虎寄合二番太田隊小隊頭。明治元年9月14日若松小田垣口で戦死。44歳。 |
柴氏家属之墓 | 柴 サツ・・・太一郎の妹。明治元年8月23日若松本二之丁の自宅で母らと死。7歳。 柴 シヲ・・・太助の母。明治元年8月23日若松自宅で自害。46歳。 柴 素衣・・・太一郎の妹。土屋敬治の妻。明治元年8月23日若松本二之丁で自害。19歳。 柴 ツネ・・・太一郎の祖母。明治元年8月23日若松本二之丁の自邸で子女4人と自害。80歳。 柴 ツネ・・・太助の妹。明治元年8月23日若松自宅で母らと死。2歳。 柴 トク・・・太一郎の妻。明治元年8月23日若松本二之丁の自宅で自害。20歳。 柴 ヒサ・・・太助の妻。明治元年8月23日若松自宅で自刃。19歳。 柴 兵部・・・太助叔父。明治元年8月23日(9月14日とも)若松の太助宅で自刃。30歳。 柴 フワチ・・・太一郎の母。明治元年8月23日若松本二之丁の自宅で自刃。50歳。 |
柴 清助墓 | 会津藩。 太一郎らの叔父。 柴家家族の自刃に際し、介錯し屋敷に火を放つ。 その後、面川沢の山荘にいた五郎に家族の最期を伝えた。 明治7年(1874年)1月18日没。 |
柴 佐多蔵墓 | 会津藩。 280石。 太一郎らの父。 戦後は斗南へ移住。 死んだ犬の肉を食べることに躊躇する五郎に 「武士の子たるを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ 」 と厳しく叱ったエピソードは有名。 明治15(1882年)年9月6日没。 |
諏訪伊助墓 | 会津藩。 1700石。 鳥羽伏見の戦いの直前に家老昇進。 戊辰戦争では日光口や土湯方面に出陣。 開城後は藩主松平喜徳付で東京の久留米藩邸で謹慎。 斗南移住後間もなく会津へ帰り旧藩士の生活難打開に奔走。 明治15年(1882年)帝政党の結社届けを出す。 同年会津地方の産業のため道路開削要望書を県会へ提出。 明治17年(1884年)から明治21(1888年)年まで北会津郡長。 明治32年(1899年)6月9日没。 |
柴 四朗墓 | 会津藩。 戊辰戦争に従軍するも出陣当時に体調を崩し、高熱を発してフラフラになりながら入城した。 のちに東京で謹慎生活を送り、赦免後も東京で勉学に励むが、学費の問題から国内を転々とする。 明治10年(1877年)、別働隊として参戦した西南戦争において熊本鎮台司令長官・谷干城に見出され、27歳のとき岩崎家の援助を得てアメリカに留学し、ペンシルバニア大学及びパシフィック・ビジネス・カレッジを卒業して明治18年(1885年)に帰国。 同年、持論である国権伸長論を基調とするナショナリズム小説『佳人之奇遇』を東海散士の名で発表して好評を得る。それ以後8編を刊行している。 政治家としては明治25年(1892年)以降福島県選出の衆議院議員として活躍し、8回当選している。 農商務次官、外務省参政官などを歴任し、条約改正反対運動などに尽力した。 大正11年(1922年)熱海の別荘にて死去。 享年69歳。 |
柴 太一郎墓 | 会津藩。 四朗、五郎の長兄。 鳥羽伏見では軍事奉行添役を務め、会津戦争では越後方面総督・一瀬要人の軍事奉行添役として北越に出陣し各地を転戦。 9月15日の激戦で負傷した。 戦後斗南に移住して藩庁に出仕したが、食糧購入の資金を横領されたため、その責任をとって禁固刑に服した。 のち下北郡長、大沼郡長、南会津郡長などを歴任した。 大正12年(1923年)4月28日没。 享年85歳。 |
柴 五三郎墓 | 会津藩。 太一郎、謙助の弟、四朗、五郎の兄。 禁門の変では槍を振るって戦うが負傷。 フランス式調練を受けており、会津に於ける調練の指導を務め、白虎隊もその訓練を受けている。 戦後は斗南へ移住。 のちに戊辰戦争の戦記である『辰のまぼろし』を著す。 昭和11年(1936年)1月6日没。 享年90歳。 |
柴 五郎墓 | 会津藩。 戊辰戦争で祖母、母、妹らが自邸において自刃。 本人は幼少のため面川の別荘に避難させられていて無事だった。 戦後は斗南に移住し、生と死と紙一重の悲惨な生活を送った。 父から厳しく錬えられた五郎は単身上京して陸軍幼年学校へ入学した。 そして士官学校へと進み、薩長閥で固められた陸軍内部でめきめきと頭角を現し、明治12年(1879年)陸軍少尉に任官し、日清戦争では大本営参謀を務めた。 五郎はその後も累進を重ね日露戦争では砲兵連隊長、重砲兵旅団長等を歴任して我が国の砲兵術の基礎を築き、大正8年(1919年)武人としては最高位の陸軍大将に進み、台湾軍司令官、軍事参議官に補せられて従二位勲一等功二級を賜った。 昭和20年(1945年)8月15日太平洋戦争敗戦の詔が下るに及び、密かに遺品を整理、12月13日自決。 享年83歳。 |