天寧寺

   

会津若松市東山町大字石山字天寧208  地図

野田家供養塔 野田清次郎。
会津藩。
明治元年1月鳥羽伏見役で戦死。
相馬孫市墓 会津藩。
諸生組頭。
明治元年4月23日宇都宮(壬生とも)城下で戦死。
28歳。
遠山為善墓 会津藩。
明治元年6月27日磐城白河で戦死。

幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
伊東俊吾墓 会津藩。
左太夫父。
隠居組。
明治元年8月23日若松甲賀町口で戦死。
73歳。
伊東悌次郎墓 会津藩。
左太夫次男。
白虎士中二番日向隊。
明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。
17歳。
上田新八郎墓 会津藩。
600石。
砲兵頭。
明治元年8月23日会津沓掛で戦死。
20歳。
佐野荘司墓 会津藩。
庄司とも。
南摩弥三右衛門弟。
明治元年5月1日磐城白河で傷、8月23日若松入城途中自刃。
21歳。
田中土佐墓 会津藩。
2000石。
家老。
城下本一之丁住。
号大海。
京都で活躍。
明治元年8月23日若松五之丁土屋一庵邸で自刃。
49歳。
簗瀬勝三郎墓 会津藩。
白虎士中二番日向隊。
明治元年8月23日会津飯盛山で戦死。
17歳。
一瀬晴治墓 会津藩。
青龍士中三番木本隊。
明治元年7月24日越後大山(与板とも)で傷、8月26日十二所村で死。
37歳。
間瀬岩五郎拝石 会津藩。
350石。
奏者番上席。
朱雀足軽二番隊中隊頭。
明治元年8月29日若松長命寺で戦死。
29歳。
間瀬新兵衛墓 会津藩。
岩五郎父。
元奉行。
明治元年9月14日若松城で戦死。
67歳。
木村常之助墓 会津藩。
6石2人扶持。
青龍隊足軽。
明治元年9月18日五十里越で戦死。
47歳。
会津藩4名墓 南摩勝子・・・弥三右衛門の母。明治元年9月7日会津勝方村で二子と自害。42歳。
南摩 辛・・・弥三右衛門の弟。明治元年9月7日会津勝方村で母、兄と死。4歳。
南摩 寿・・・弥三右衛門の弟。明治元年9月7日会津勝方村で母、弟と死。8歳。
南摩 節・・・弥三右衛門の弟。明治元年9月16日若松城で戦死。15歳。
萱野権兵衛墓 会津藩。
家老。
1500石。
文武両道に優れる。
剣は一刀流溝口派の達人。
戊辰戦争後、新政府より藩主父子を助命するかわりに戦争の首謀者3名を差し出すよう要求された。
西郷頼母は行方不明、田中土佐、神保内蔵助は既に自刃していたため4番目の席次にあった萱野が藩の責任を一身に背負って自刃した。
明治2年5月18日飯野藩保科邸内において自刃。
40歳。
そのとき奥義の絶えるのを恐れ、傍らの竹の箸で井深宅右衛門に伝えた話は有名。

近藤 勇墓 新選組局長。
明治元年3月6日甲陽鎮撫隊を結成して甲州勝沼において、谷 干城の軍と戦い、江戸から下総の流山に退いたが、4月4日捕らえられた。
4月25日板橋の処刑場にて斬首され、その首は閏4月8日京都三条河原に晒されたが、首は何者かによって盗み去られた。
会津にある近藤の墓は、会津戦争に参加した土方歳三によって建てられたもので、三条河原から盗み去られた近藤の首塚であるという。
戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。
松平容保自身の筆によるらしい。

土方歳三慰霊碑 新選組副長。
近藤 勇出頭後、助命嘆願の傍ら新選組を斎藤 一に託して会津に向かわせ、島田 魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府脱走軍と合流。
4月11日に江戸城無血開城が成立すると江戸を脱走し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めた。
下館、下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させるが、壬生の戦いに敗走、西軍と再度宇都宮城で戦った際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることになり、約3ヶ月の療養生活を送る。
その後全快し母成峠の戦いに参戦するも敗退。
仙台を経て蝦夷地に渡る。
蝦夷共和国では陸軍奉行並となり箱館市中取締りや陸海軍裁判局頭取を兼ねた。
明治2年5月11日一本木関門を守備し、馬上で指揮中、銃弾に腹部を貫かれて戦死。
35歳。
伊東左太夫墓 会津藩。
名は祐順。
寛堂と号す。
藩校日新館で学ぶとともに宗川 茂にも師事。
家禄150石を継ぎ、儒者見習・用所密事頭取を経て大目付となる。
藩主松平容保が京都守護職に就任したため公用人として京都へ赴く。
戊辰戦争の際は米沢藩等へ使いした。
明治2年喜徳(天山公)の侍講に召し出されて上京したが、翌々年病気のため急逝。
享年46歳。
郡 長正墓 会津藩。
萱野権兵衛の次男。
父が藩を代表して戊辰戦争の責任を取り切腹して果てたため、先祖の姓の郡と改めた。
会津藩は明治2年陸奥斗南に3万石として再興なり、藩学再建のため翌年藩より選ばれ、同輩7人とともに豊前豊津藩校の育徳館に留学中、食事のことについて書いた母への手紙が生徒間の問題となり、明治4年(1871年)5月1日、藩の名誉のため切腹して果てた。
享年16歳。
酒井伊佐美墓 会津藩。
白虎士中二番日向隊。
旧名・峰治。
戸ノ口原での戦闘を経て退却の際、仲間とはぐれ、自刃に及ぼうとしたところを牛ヶ墓村の百姓・庄三とその知人の妻に諭され自刃を思い止まり農夫に姿を変え入城を果たす。
籠城戦では白虎士中合同隊に編入され西出丸を守備した。
維新後は若松の一箕村で精米業を営んでいたが、明治38年(1905年)北海道紋別郡雄武村に移住し弟の酪農業を手伝い、その後旭川に移って精米業を営んだ。
昭和7年(1932年)没。
存命中は彼が白虎隊士であったことは知られていなかったが、平成5年(1993年)酒井家の仏壇から伊佐美が明治時代に書き記した『戊辰戦争実歴談』が発見され白虎隊の行動がより詳しく解明された。