若松城跡

   

会津若松市追手町1-1  地図

若松城跡 至徳元年(1384年)に蘆名直盛によって黒川城として築城された。
天正18年(1590年)に会津に移封になった蒲生氏郷により本格的天守閣が築かれた。
寛永16年(1639年)に加藤明成が天守閣を五層にして北出丸、西出丸を増築して現在の城跡を完成させている。
戊辰戦争では1ヶ月に及ぶ籠城戦に耐えたが、降伏開城となった。
萱野国老殉節碑 会津藩。
家老。
1500石。
文武両道に優れる。
剣は一刀流溝口派の達人。
戊辰戦争後、新政府より藩主父子を助命するかわりに戦争の首謀者3名を差し出すよう要求された。
西郷頼母は行方不明、田中土佐、神保内蔵助は既に自刃していたため4番目の席次にあった萱野が藩の責任を一身に背負って自刃した。
明治2年5月18日飯野藩保科邸内において自刃。
享年40歳。
そのとき奥義の絶えるのを恐れ、傍らの竹の箸で井深宅右衛門に伝えた話は有名。
佐川官兵衛顕彰碑 会津藩。
文久2年(1862年)藩主松平容保が京都守護職となるや、藩士の子弟を選んで別撰隊が組織され隊長を命ぜられ、京都市中の警護にあたり、鬼佐川の異名をとった。
鳥羽・伏見の戦いでは右眼を負傷しながら奮戦した。
若松に戻ると、越後口防禦の任につき、精鋭の朱雀隊四番隊長として越後に向かった。
その後、長岡が落ち、白河口も破れ藩主に召還され若松に戻り、若年寄から家老に進み若松城外の防衛に専念した。
落城後、幽閉されたが特赦により若松に閉居するも、警視局の要請を受け旧藩士を率いて巡査隊に入り、一等警部に任じ西南の役に参加。
明治10年(1877年)3月18日阿蘇山中の黒川村で戦死。
享年47歳。
佐川官兵衛が戦死した地である熊本県南阿蘇村より寄贈された石で建立された。
平成13年(2001年)建立。
遠藤敬止翁頌徳碑 会津藩。
鳥羽伏見の戦いから籠城戦まで転戦。
敗戦後の幽囚生活の後、慶応義塾で経済学を学ぶ。
実業界に身を投じ仙台の七十七銀行頭取、仙台商工会議所初代会頭となる。
明治23年(1890年)旧藩主松平家が政府より若松城跡地86,806坪の払い下げを受けた際、「この城跡は戊辰の逆境に幾千の魂を留めた古戦場なので、千古の記念にしなければならない」と私財を投げ打って落札し、松平家へと献納した。
城跡は後に松平家から市に売却され現在に至っている。
昭和45年(1970年)敬止の徳を讃えて建立された。