函館市谷地頭町1周辺 地図
碧血碑 | 七回忌にあたる明治8年(1875年)5月に東軍戦死者を慰霊するために侠客柳川熊吉が奔走して収容した東軍兵士の遺体を改葬した場所に建立された。 「碧血」とは「義に倒れた武人の血は三年たつと碧くなる」という中国の故事に基づく。 祀られた戦死者は815人を数えた。 柳川熊吉は大正2年(1913年)に88歳で没するまで碧血碑の墓守りを続けたという。 |
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宮田登輔 | 徳川義士と刻まれているので東軍戦死者と思われる。 明治2年3月没。 幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。 |
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柳川熊吉翁之寿碑 | 文政8年(1825年)江戸浅草に生まれ、安政の大地震後箱館に渡る。 初め遊郭の金棒引をしたが、のち箱館奉行堀 利煕の小者となり、忠勤と侠気をもって愛された。 熊吉は柳川鍋が上手だったので堀に柳川と呼ばれ後にこれを姓とした。 消防組頭だった熊吉は東軍上陸後、榎本武揚の知遇を受け、消防夫を指揮して町内の警戒にあたった。 戦後は、新政府をはばかり埋葬されずに散在していた東軍の死骸を棟梁大岡助右衛門と相談して収集、実行寺境内に合葬し一大墓標を建立した。 のち強引に官の許可を取り、函館山山麓の地にこれらの遺体を移し、明治8年(1875年)には榎本武揚や大鳥圭介らの協賛を得て、東京で彫刻させた石標を建て、祭典を執行した。 また熊吉には敗戦寸前の東軍から重要書類の保存を依頼され、これを死守し、のち新政府に引き渡したというエピソードもある。 老後は家業の料理店を子に譲り、東軍戦死者の霊を祭ることに専念した。 大正2年(1913年)没。 |
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