八重籬神社

   

高梁市内山下120  地図

故松山藩老熊田君碑銘 備中松山藩。
物頭、番頭を経て執政。
明治元年1月鳥羽伏見役後、藩兵を率いて大坂からの帰藩途中の1月22日、備中玉島で岡山藩兵に包囲され、恭順を示すため自刃。
44歳。
故幕府老中松叟板倉公之碑銘 備中松山藩第7代藩主。
文政6年(1823年)1月4日、陸奥白河藩主・松平定永の八男として生まれ、備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職の養子となり、嘉永2年(1849年)閏4月6日に勝職の隠居にともない家督を継いだ。
安政4年(1857年)に奏者番兼寺社奉行に任命されたが、安政の大獄での井伊直弼の強圧すぎる処置に反対して寛大な処置を行い、直弼の怒りを買って安政6年(1859年)に罷免された。
直弼死後の文久元年(1861年)に再び奏者番兼寺社奉行として幕政に復帰し、翌年には老中に昇格した。
鳥羽伏見の戦いの際は徳川慶喜と大坂にいて、会津藩主・松平容保らと共に開陽丸で江戸へ退却した。
その後は宇都宮から箱館まで転戦したが、明治2年5月25日に自訴し上野国安中藩で終身禁固刑となった。
明治22年(1889年)4月6日没。
66歳。