八雲墓地

   

八雲町豊河町8-4周辺  地図

旧会津藩2名墓 三井勝用・・・旧名三井計之助勝利。150石三井伴次郎の長男として天保12年(1841年)7月7日に生まれる。文久2年(1862年)藩主松平容保に従い京都に赴く。鳥羽伏見の戦いに参戦後、会津戦争では朱雀士中三番隊に属して戦い、降伏後は塩川に謹慎し、のち越後高田の最尊寺にて謹慎を経て斗南へ渡り、その後北海道山越内村の開拓に従事し、後に茅部、山越郡役所の書記、森村外5ヶ村の戸長、宿野辺郵便局長を務め、明治42年(1909年)3月26日没。享年68歳。明治13年(1880)に函館高龍寺に「傷心惨目」の碑を建立した際に自ら代表として追悼文を寄せている。
三井計次郎・・・勝用弟。会津戦争後は東京にて謹慎し、後に斗南で勝用と再会する。勝用の北海道移住に賛成し、山越内村に移住に明治6年(1873年)11月に開所となった山越教育所の教員に任命される。明治12年(1879年)12月に山越内村の戸長に任命され、その後は各戸長を務め、八雲村の初代村長となる。明治39年(1906年)8月20日に現職で病没した。