結城城跡

   

結城市大字結城2486-1  地図

結城城跡 結城藩主・水野勝知は、家老水野甚四郎等41名の江戸詰藩士とともに府内にとどまり、上野で気勢をあげる彰義隊の首領格に納まっていた。
国許では勤王派の家老小場兵馬が中心となり、前藩主勝進の晩年の子であり、二本松藩から養子に入った勝知の義弟にあたる勝寛を立て、恭順の姿勢をとった。
これに激怒した勝知は、たちまち彰義隊士60名、会津藩の田中左内等30名の応援を得、3月15日小山に着陣。
小場兵馬は小山の陣所に赴き陳謝したが聞き入れられず、3月25日早暁、勝知の部隊は結城城西方から城内を砲撃、搦手門から突入した将兵は守備兵との交戦中、いたるところに放火し、城は灰燼と帰し、国許側の戦死者8名、負傷者13名という最悪の結果を招いた。
焦土と化した結城城は、流山で近藤 勇を捕縛した東山道軍香川支隊の分遣隊により4月5日解放され、勝知は領内成東村から彰義隊の籠る上野山内へ逃亡した。
表忠之碑 西軍死傷者の碑。
昭和19年(1944年)建立。