会津若松市大町2丁目7-45 地図
町野久吉首塚 | 会津藩。 主水弟。 町野主水が指揮する150名足らずの会津藩兵は三国峠の三坂大般若塚付近に配備された。 この状況下にあって主水は小出島まで無血撤退をし、長岡決戦の計画を打ち出した。 しかし弟の久吉は会津武士に退却は無いと強く反対、閏4月24日単身家宝の名槍を揮って敵陣に突っ込み敵弾数丸を受けて戦死した。 17歳。 |
長谷川栄助墓 | 会津藩。 6石2人扶持。 月割。 明治元年8月15日越後赤谷で戦死。 43歳。 |
町野家家族墓 | 町野キト・・・主水の母。明治元年8月25日会津勝方で子女と自害。47歳。 町野源太郎・・・主水の伜。明治元年8月25日会津勝方で母らと死。3歳。 町野ナオ・・・主水の娘。明治元年8月25日会津勝方で死。7歳。 町野フサ・・・主水の姉。明治元年8月25日会津勝方で自害。31歳。 町野ヤヨ・・・主水の妻。明治元年8月25日会津勝方で自害。24歳。 |
小池源五郎墓 | 会津藩。 明治元年8月24日戦死。 幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。 |
武藤英淳墓 | 会津藩。 医師。 朱雀士中四番町野隊付。 明治元年9月5日会津小田村で自刃。 51歳。 |
町野主水墓 | 会津藩。 藩主松平容保が京都守護職のとき、主水もこれに随行して京都にあったが、たまたま桑名藩士と口論になり相手の2人を斬った。 主水は入牢させられたが、蛤御門の変が起きるや牢を破って一番槍の勇名を挙げたものの、後に津川に流された。 戊辰戦争では越後小出島の奉行に任命されたが、会津危急となり越後口総指揮官佐川官兵衛が若松に呼び戻されるや、主水は代わってこの方面軍の指揮官となった。 戦後は戦死者の埋葬についての取り締まりを命ぜられたが、この間、白虎隊士の遺体を埋葬した吉田伊惣治の投獄問題や遺体の丁重な取り扱いなどについて同志の伴百悦らと相計らって西軍参謀への請願交渉を進めた。 その後は白虎隊士の墓所の選定や、慰霊行事の開催にも献身した。 大正12年(1923年)6月9日没。 享年87歳。 |